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土佐堀出口と淀屋辰五郎
淀屋橋南詰の西側に「淀屋の屋敷跡」と記された石碑が建っています。1705年、淀屋の5代目辰五郎は驕奢な生活が町民の身分を越えるとして全財産を没収され、所払いにされてしまいました。これが仇討ち物語の幕開けです。
淀屋の初代となる岡本常安は幼年のときに信長の石山本願寺襲撃に巻き込まれ、吉野に逃れました。長じてから大阪へ出ると材木商を営み、秀吉の伏見城造営や淀川築堤の工事を請け負って財を成します。大坂の陣では徳川方にくみし、仮城を建造して家康の信望を得ました。中之島の開発に尽力し、なにわ筋の常安橋にその名を残しています。
2代目の言當は米市を開設し、米相場を一手に掌握しました。3代目箇斎は当主をわずか5年務めて逝去し、4代目重當のときに淀屋は絶頂期を迎えます。このころ江戸幕府は財政が困窮期に入り、諸藩は商人から借金をするまでになります。やがて幕府は豪商を目の敵にし始めました。重當は淀屋生き残りの手を打ち始めます。世間の目を欺くために5代目廣當に放蕩息子を演じさせ、番頭の牧田仁右衛門に鳥取の倉吉で米商を営なませました。しかし幕府は廣當が当主となって3年目に淀屋を取り潰してしまいます。この2代目から5代目までが辰五郎と呼ばれていました。
倉吉の牧田仁右衛門は米商のかたわら農機具の稲梳き千刃を開発して富を成しました。やがて淀屋の地所を買い戻し、表向きは多田屋、内々には淀屋として商いを再開します。多田屋3代目の寿弘は4男を初代淀屋清兵衛として独立させ、妻として岡本家から志加を迎えます。取り潰しから59年目に淀屋が甦ります。
1859年、倉吉の多田屋と大坂の淀屋は忽然と消えました。そのとき処分された財産は倒幕活動の資金に使われたといわれています。
重當は大石蔵之助を資金援助したそうです。重當と蔵之助は世間の目を欺くために遊興三昧に耽るという同じ戦法を用いました。しかし二つの仇討ちはスケールが違います。赤穂浪士は吉良上野介ひとりを狙って2年近くあとに敵を討ちますが、淀屋は1世紀半もかけて幕府という体制を倒したのです。恐るべし大坂商人。