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阿波座出入口と大塩平八郎
明治維新の30年ほど前、薩摩や長州もまだ幕府に従順であったとき、大坂庶民の困窮を救うために敢然と反旗を翻した大塩平八郎。阿波座出入口の北、本町通りの天理教飾大分教会正面に終焉の地の石碑があります。
先祖代々が大坂町奉行所の与力職に就いていた大塩家の平八郎は、14才で与力見習となり、26才のときに正式に与力となります。与力は奉行の下で同心を指揮して働く中堅どころです。
平八郎は清廉潔白で、奉行所の腐敗が許せませんでした。同僚の与力が賄賂を要求して手心を加えたり、手下に恐喝、強盗、殺人までさせたりする悪党であることを知ると、手下を片っ端から捕え、ついには同僚を自害させてしまいました。一味から没収した3千両は貧民への施し金にします。
このとき平八郎は幕府内の複数の者が不正に加わっていた証拠をつかみました。巨悪をあばこうと立ち向かうのですが、圧力が加えられて悪事は揉み消されてしまいます。平八郎は深く失望しました。すぐに職を養子の格之助に譲って37才で奉行所を去ってしまいます。
平八郎は私塾「洗心洞(せんしんどう)」を開き、陽明学を教えます。学者となって「洗心洞剳記(さつき)」を著し、「口先だけで善を説くことなく、善を実践しなければならない」と書きました。
1833年から3年も凶作が続いた天保の大飢饉では30万人の餓死者がでたといいます。ところが大坂町奉行の跡部良弼(あとべよしすけ)は、将軍交代の儀式のためと市中の米を買いあさり、せっせと江戸に送りました。このため大坂市中の米の値段が暴騰します。平八郎は飢饉対策を進言しますが、「意見するとは無礼」と逆に叱責されてしまいます。三井や鴻池などの豪商に義援金を要請しても無視されました。平八郎は窮民を救済するために蜂起することを決意します。
天満にあった洗心洞を繰り出した平八郎、格之助の父子と門弟たちは豪商邸を襲撃し、大坂町奉行を目指しますが、たちまち幕府軍に鎮圧されてしまいます。混乱の中を脱出した父子は靭油掛町の商家の蔵に隠れました。