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信濃橋出口と松尾芭蕉

 

真宗大谷派難波別院(南御堂)の門前にあった花屋仁左衛門の貸座敷。薬が効いてすこし眠れた芭蕉は夜半に目覚めると傍に控えていた弟子に墨をすらせます。

 

旅に病んでゆめは枯野をかけ廻る

 

芭蕉はこれを辞世の句ではなく病床での句であるとしましたが、その4日後に亡くなってしまいました。

 

1644年に伊賀上野で生まれた芭蕉は29才のときに江戸へ下り、神田上水の浚渫工事で出稼ぎをしながら俳諧の修行をします。100人ほどの人夫を差配する現場監督の役をこなしたそうです。

 

やがて桃青(とうせい)の俳号で多くの弟子をかかえるのですが、37才のときに宗匠の座を捨て、人里離れた深川に隠棲してしまいます。妾の寿貞(じゅてい)と伊賀上野から連れてきた甥の桃印(とういん)が駆け落ちをしたのです。傷心の桃青は頭を丸めて僧形となり、名も芭蕉と改めます。

 

芭蕉という植物はバナナに似た多年草で、仏教ではこの世の存在が無であることの例えにするそうです。深川の草庵は弟子から贈られた芭蕉が生い茂り、芭蕉庵と呼ばれました。芭蕉庵を拠点に新しい俳諧活動を始めた芭蕉は、46才のときに江戸を立つと半年をかけて東北や北陸を行脚し、紀行文「おくのほそ道」を書きます。

 

ようやく清書が終わった「おくのほそ道」を懐に故郷の伊賀上野に向ったときは51才。これが芭蕉の最後の旅となってしまいました。兄の半左衛門にはあたたかく迎えられますが、月見の宴で茸を食べ過ぎて下痢をし、風邪も引いて、腹痛、頭痛、悪寒に悩まされ始めます。そんな体調不良にもかかわらず、芭蕉は弟子の之道(しどう)と洒堂(しゃどう)の諍いの仲裁に大阪へと向かいました。天王寺の洒堂の家に泊まり、道修町の之道の家にも泊まりますが、仲裁はうまくいきません。そのうちに女性の弟子である園女(そのめ)の饗応でまたも食べ過ぎ、体調をますます崩してしまいました。容体が悪化すると之道の家では手狭になり、花屋の貸座敷に移されるのです。難波別院の本堂の南側には芭蕉の句碑が立っていて、そばには数本の芭蕉が植えられています。

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