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柳原出入口と楠木正成

 

柳原出入口の北にある湊川神社には楠木正成が祭られています。正成について確かなことがわかっているのは千早赤坂村での挙兵から湊川での自刃までわずか6年ほどのあいだだけです。挙兵の直前は大和川の水運を利用して商業活動をする集団の頭であったようです。

 

元弘元年(1331年)、後醍醐天皇は側近の密告で討幕計画が発覚すると女装して御所を脱出し、山城国の笠置山へ逃れて挙兵します。正成はこれに呼応して河内国の下赤坂城で挙兵しました。幕府は討伐軍を差し向け、笠置山を陥落させます。下赤坂城では正成が大木を落としたり、熱湯を浴びせたり、仕組んであった二重壁を落としたりという奇策で幕府軍を苦しめました。長期抗戦は無理とみた正成は城に火をかけ、自害したと見せかけて姿をくらませます。

 

後醍醐天皇は隠岐島へ流されますが、潜伏して機会を窺っていた正成は、再び千早城で挙兵します。わずかな軍勢で籠城する千早城に幕府の大軍が押し寄せると、楠木軍は鎧を着せた藁人形をおとりにして誘いこんだり、城から打って出て奇襲したりと幕府軍を翻弄しつづけます。

 

幕府軍が千早城を陥落できないと知ると各地で反乱が起き始めました。隠岐島を脱出した後醍醐天皇を追討するはずの足利尊氏は京都の六波羅探題を攻め落とし、東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させます。

 

後醍醐天皇が始めた建武の新政は公家中心であったため、尊氏が離反します。正成と義貞は尊氏を追い落としますが、九州に退いた尊氏は体制を立て直して東上します。天皇は正成と義貞に尊氏を迎え討つことを命じます。兵庫へ出陣した正成は湊川の西にある会下山に布陣し、義貞は和田岬に陣を敷きました。尊氏の激しい攻撃に義貞が敗走すると、孤立した正成は大軍を相手に奮戦しますが、湊川まで追い詰められて自害してしまいます。

 

尊氏が開いた室町幕府の時代には敵として扱われた正成も、戦国時代には卓越した戦略が高く評価され、江戸時代になると水戸光圀が正成の墓を建てます。湊川神社境内東南隅にある「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑です。明治天皇の命で湊川神社が建てられたのは明治5年のことです。

 

決死の覚悟で兵庫に向かった正成は、途中まで来たとき11才の息子、正行を河内に帰らせました。楠木親子最後の別れです。

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