愛しのハイウェイ
阪神高速
梅田出入口と菅原道真
梅田出口が通り抜ける円筒形のビルの横を南下し、国道2号を越えたところが堂島3丁目の交差点。「梅田」という文字が初めて地図上に現れたのはこのあたりです。元禄4年(1691年)の古地図に「梅田橋」と記されています。下を流れる川は曽根崎川。この川は堂島川の上を走る環状線が御堂筋を越したあたりで北へ分流し、曽根崎新地の南端を通って神戸線が堂島川を渡るあたりでまた合流していました。明治42年(1909年)の大火のあと、川は瓦礫の捨て場となり、大正13年(1924年)にはすべて姿を消してしまいます。
梅田出口から東に進むと阪急梅田駅。駅の東側は若者が集まる茶屋町です。若者を惹きつけるきっかけとなった梅田ロフトに向かう路地の入口に、ビルの谷間で肩をすぼめるように石の鳥居が立っています。綱敷天神社御旅所(つなしきてんじんしゃ おたびしょ)です。鳥居の足元の案内板に、かつて池や沼を埋め立てたことから「埋め田」と呼ばれていた地名が「梅田」と書き換えられた由来を見つけました。 承和12年(845年)に生まれた菅原道真は「阿呼(あこ)」と呼ばれていた5才のときに早くも和歌を詠みます。
うつくしや 紅の色なる梅の花
あこが顔にも つけたくぞある
類まれな天賦の才能をもった道真は学者として最高位の文章博士(もんじょうはかせ)となり、右大臣にまで昇進しますが、延喜元年(901年)、左大臣藤原時平の政略により太宰府に左遷されます。失意の道真が都を離れるとき詠んだ歌。
こちふかば にほひおこせよ梅の花
あるじなしとて 春な忘れそ
大宰府に向かう道真が埋め田のあたりにさしかかったとき、紅梅がいまを盛りと咲いていました。道真は船のとも綱を巻いてつくったにわかづくりの敷物に座って眺めます。綱敷天神社の名前の由来です。この故事から地名も「埋め」よりも美しい「梅」のほうがふさわしいとなるのです。