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天王寺出入口と聖徳太子
厩戸皇子(うまやどのみこ)の父である用明天皇が即位後わずか2年で崩御すると、皇位を巡る争いが起きます。それまでも激しく対立していた日本古来の国神(くにつかみ)を尊ぶ保守派の物部氏と新しい仏教文化を取り入れようとする進歩派の蘇我氏が激突しました。蘇我氏の軍勢に加わった厩戸皇子は、白膠(びゃっきょう)の木で四天王の像を作り、戦勝を祈念して、勝利すれば寺を建立すると誓います。戦いは蘇我氏の勝利に終わりました。
このころ天皇の位は親子ではなく兄弟で継がれていました。用明天皇の子である厩戸皇子ではなく、用明天皇の異母弟である崇峻(すしゅん)天皇が即位します。ところが政治の実権をにぎった蘇我馬子(そがのうまこ)は、意見が合わなくなった崇峻天皇を殺し、用明天皇の同母妹である豊御食炊屋姫(とよみけのかしきやひめ、料理の上手な姫という意味)を即位させます。史上初の女帝となった推古天皇です。厩戸皇子は皇太子となり、天皇にかわって政務をとる摂政になります。この推古天皇元年(593年)に四天王寺の造立が開始されます。
摂政となった聖徳太子は、身分によらず優れた人材を登用する「冠位12階」を制定し、「17条憲法」を作成して国家の法制を整え、仏教の注釈書である「三経義疏(さんきょうぎしょ)」を著し、隋国へ「日いずるところの天子、書を、日没するところの天子にいたす。つつがなきや」で始まる国書を送って対等外交を確立します。
こうした聖徳太子の偉業は日本書紀などに記されているのですが、信憑性は低いとされています。太子の理想主義を賞賛する人たちが業績を誇張したとか、太子そのものが創作であるとか、太子は実は蘇我馬子であるとかの説があります。四天王寺も、そのあたりを本拠としていた吉士氏が建てたという説が有力です。
聖徳太子の姿として思い浮かぶのは一万円札に使われていた肖像です。唐本御影(とうほうみえい)と呼ばれ、聖徳太子を描いた最古のものとされていました。しかし1982年に東京大学史料編纂所から太子とは無関係の肖像との説が出て、1984年から紙幣には使われなくなってしまいました。