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湊川出入口と義経

 

湊川出入口の北方にある鵯越。義経がここにたどり着いたときには、戦いは始まっていました。東は生田川出入口付近の波打ち際で、西は若宮出入口の先にある須磨の一の谷と神戸長田出入口付近で。平家の本陣は柳原出入口付近の大輪田泊、いまの和田岬です。鵯越のすぐ下には山の手の陣がありました。平家の戦意は高く、源氏はどこでも苦戦していました。鵯越のすこし西にある鹿松峠でも戦いが起きます。これが義経に幸いしました。山の手の陣の平家は鹿松峠に気をとられ、鵯越の崖を駆け降りたわずか70騎ばかりの義経たちに完全に不意を突かれたのです。逆落としの崖は西神戸有料道路のトンネル南入口東側です。騎馬の義経たちが鬨の声をあげて襲いかかると、山を背にしていた平家の武者たちは戦う術もなく、赤旗を捨てて逃げ出しました。白旗を掲げた騎馬集団の前を逃げる平家の武者が源氏の武者と勘違いされます。源氏が放った火の煙がこの錯覚をますます助長しました。こうして平家は総崩れになってしまいます。

 

義経が駆け降りた場所については論争があります。筒井康孝の短編小説「こちら一の谷」では、道案内に現れた山陽電鉄と神戸電鉄の社員がこちらこそ一の谷と争って義経を困らせます。ここでは須磨の一の谷は江戸時代になって現れたもので、一の谷合戦のころは鵯越の麓にあった湊川がつくる美しい湖のあたりが一の谷とよばれていたという説を取りました。鵯越と須磨の一の谷は8キロも離れています。

 

平清盛は神戸を宋貿易の拠点となる国際貿易都市にすることを夢みました。鵯越のふもとに雪見御所とよばれる山荘をつくり、大輪田泊を改修して、福原に遷都します。ところが、かつて常盤御前の美しさに惑わされて生かしてしまった乳飲み子が、鵯越を逆落としで下ると雪見御所や福原あたりを駆けまわり、平家滅亡への最初の一撃を加えるのです。一の谷は鵯越の麓であるという説のほうが背景やセットが変わらない舞台劇のようにもなります。

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