愛しのハイウェイ
阪神高速
堺出入口と千利休
千利休の屋敷跡は堺出入口からすこし西へ行った宿院交差点のすぐ近くにありました。
堺で倉庫業を営む魚屋(ととや)に生まれた与四郎は、店の跡取りとしての品位を身につけるため、若くして茶の道に入ります。19才のとき、当時の茶の湯の第一人者である武野紹鴎(じょうおう)に入門し、宗易(そうえき)と名乗りました。茶の湯の指南役である茶頭(さどう)として信長に仕えるのは50才の頃です。信長は自由都市、堺の商人が育てた新興芸術である茶の湯に熱中しました。名物狩りで茶器を集め、家臣が勝手に茶の湯をすることを禁じ、茶器を与えることを恩賞とします。このため名器は一国一城にも値するようになります。信長の茶の湯を利用した政治は御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう)といわれています。
信長が斃れたあと、宗易は秀吉の茶頭となります。秀吉も信長に負けないくらい茶の湯に熱心でした。宗易は秀吉の側近として政治的にも重要な役割を演じます。63才のとき、宗易は秀吉が関白就任の返礼とて開いた禁裏茶会を取り仕切り、天皇から利休の号を与えられました。
九州を平定して天下統一を果たした秀吉は、史上最大の茶会、北野大茶湯(おおちゃのゆ)を催します。これには公家や武士ばかりでなく百姓や町民も招かれました。この頃から利休と秀吉は歯車が合わなくなりはじめます。
貿易の利益を独占しようとした秀吉は、堺に重税を課し、自由都市の象徴であった壕を埋めます。利休の愛弟子、山上宗二を無礼があったとして打ち首にしました。利休も秀吉が嫌う黒茶碗をわざと使ったり、修理を頼まれていた秀吉秘蔵の墨蹟(禅宗の高僧による書)を勝手に飾ったりしました。
大徳寺の山門上に寄進への礼として置かれた利休の木像が問題となります。利休は蟄居を命ぜられ、京から堺へ下ります。門人たちの謝罪の勧めにも応じません。ついに怒りを爆発させた秀吉は利休を呼び戻して切腹を命じました。1591年、侘び茶を完成させた利休は69才の生涯を閉じます。