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高津入口と真田幸村

 

大坂冬の陣で大活躍し、夏の陣では家康をあと一歩のところまで追い詰めながら力尽きた真田幸村。幸村が陣を構えたのは冬の陣では高津入口の東北東1.5キロほどにある真田山、夏の陣では南1.5キロほどにある茶臼山でした。

 

幸村が大阪城に馳せ参じたときは45才。信州の上田城で2度にわたって徳川軍を翻弄し、知将として名声を博した父の昌幸はすでに亡くなっていました。家康は真田籠城の報に驚愕しますが、幸村であることを知ると安堵します。

 

冬の陣で豊臣軍は籠城作戦を取りますが、幸村は出城を築いて自分が守備につくことを認めさせます。真田山を半円形の土塀で囲い、矢狭間や鉄砲狭間を設けました。

 

緒戦では、敵兵を挑発して出城近くへ誘き寄せ、矢弾を浴びせ掛けて戦果をあげます。徳川方への内応者が出城の壁を壊して狼煙を上げる手はずであることを知るとこれを逆用します。偽の狼煙に騙された徳川軍が出城に押し寄せると、引き付けてから一斉射撃。ここで徳川軍は冬の陣の総戦死者の5分の4にあたる損害を出してしまいました。

 

幸村がいては苦戦を免れないとみた家康は、「一国を与える」と懐柔しますが、幸村は「討ち死にする覚悟」と突っぱねます。幸村の調略に失敗した家康は力攻めをあきらめて和睦を図りました。 和睦のあと、堀を埋め立てて大阪城を丸裸にした家康は、無理難題を突きつけて夏の陣を画策します。

 

夏の陣では幸村は茶臼山に陣取りました。幸村は家康の本陣を狙う奇襲策を立て、一直線に突き進みます。前衛の守備隊の陣形を突き崩し、本陣にたどり着いて、陣幕や旗印を倒しました。本陣は一瞬にして壊滅状態となり、家康は自刃を覚悟したともいわれています。しかし、援軍が駆けつけると退却を余儀なくされ、幸村は深手を負いながら茶臼山まで引き上げます。付き添う数名と休息しているところに追っ手が現れ、ついに討ち取られてしまいました。幸村にもうすこしだけ運があったら、家康を討ち取っていたかもしれません。そうするといまごろ阪神高速道路は首都高速道路とよばれていたかもしれません。

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