愛しのハイウェイ
阪神高速
アウトバーンとアドルフ・ヒトラー
ドイツでは自動車と道路の発達が結びついているようです。そこでまず自動車の話から。
世界初のガソリン・エンジン自動車が誕生したのは1886年です。この年、カール・ベンツ(Karl Benz)はマンハイムで3輪自動車を、ゴットリーブ・ダイムラー(Gottlieb Daimler)はカンスタットで4輪自動車をつくり、ベンツ社とダイムラー社が設立されます。ベンツ夫人は夫がつくった車をこっそり動かし、誰でも練習すれば運転できることを証明しました。ダイムラー社が生産する車は、同社を経済的に支援した大富豪の娘の名前をとってメルセデスと名付けられます。1898年には、ベンツ社の工場長を務めていたアウグスト・ホルヒ(August Horch)が独立してホルヒ社を設立し、車名をホルヒとします。同年、アダム・オペル(Adam Opel)も自転車から自動車事業に参入します。
1909年、技術を重視しすぎたホルヒは経営陣と対立して自社から追われます。すぐに新しい会社を設立して車名をホルヒとしますが、裁判でホルフ社と同じ車名の使用を禁止されます。そこで翌年にドイツ語Horch(聞く)のラテン語であるAUDI(アウディ)を会社と車の名前にします。
ベンツ社とダイムラー社は1926年に合併し、車名はメルセデス・ベンツとなります。BMWは、バイエルン自動車工場 (Bayerishe Motoren Werke)の頭文字をとったもので、もとは航空エンジン・メーカーでしたが、30年代後半には自動車メーカーとしての地位を確立します。39年には大衆車フォールクスワーゲンが登場します。
これでメルセデス・ベンツ、オペル、アウディ、BMW、フォールクスワーゲンと主なドイツ車が勢ぞろいしました。
1921年にベルリンに開設されたアーブス(AVUS:Automobil Verkehrs und Ubungs-Strasse)と呼ばれる自動車メーカーのためのテスト・コースは、ドイツ車の性能を高めることに大いに寄与しました。この頃から高速道路網の構想もあったようですが建設は進みませんでした。23年にはイタリアに世界最初の高速道路が出現してしまいます。26年、世界恐慌で経済破綻寸前に追い込まれたドイツに米国の自動車メーカーが進出してきました。GMがドイツ最大手のオペルを買収し、フォードがケルンにドイツ・フォードの大工場を開設します。その攻勢に対抗するため、32年、アウディー、ホルヒ、デーカーヴェー、ヴァンダラーの4社がアウト・ウニオン(AUTO UNION)を結成します。現在もアウディーに使われている4つの銀色の輪のエンブレムはこのとき誕生しました。
1933年にナチス党による政権を成立させたアドルフ・ヒトラーは、国威発揚策として工業力を重視し、自動車産業の育成に力を入れます。これはムッソリーニのイタリアがアルファロメオでグランプリに勝利し、世界にイタリアの工業力を誇示したことも影響していると思われます。ヒトラーは「グランプリに貢献したメーカーに50万マルクを出す」と自動車メーカーを鼓舞します。アウト・ウニオンとダイムラー・ベンツはグランプリを舞台とした総力戦を展開することになります。やがて銀色のドイツ製マシーンは、それまでの主役であったフランスの青いブガッティやイタリアの赤いアルファロメオ、マセラーティを圧倒し始めます。
アウト・ウニオンが設計を依頼したのは、元ダイムラー・ベンツの技術者、当時はフリー・ランサー、後にポルシェ社をつくるフェルディナンド・ポルシェ(Ferdinand Porsche)でした。この天才的な技術者によって現在のF1マシンの原型ともいえるPワーゲンが開発されます。
ヒットラーは不況対策としてアウトバーン(Autobahn)の建設を開始します。1935年にフランクフルトからダルムシュタットまでの40kmが開通しました。このアウトバーンの直線区間は、アウト・ウニオンやダイムラー・ベンツのグランプリ・チームによってスピード記録達成のためのコースとしても使われました。37年には伝説のレース・ドライバー、アウト・ウニオンのベルント・ローゼンマイヤー(Bernd Rosemeyer)が公道での最高速度400km/時を記録します。翌38年、ローゼンマイヤーは同じ区間で記録挑戦中に事故を起こして亡くなります。ローゼマイヤーを実の息子のように可愛がっていたポルシェは、自分がつくったマシーンで彼が事故死したことを一生悔やんでいました。事故現場に建てられた記念碑にはいまも献花が絶えないそうです。
アウトバーンの歴史を述べた資料では、アドルフ・ヒトラーが果たした役割についての表現が微妙であることが多いようです。1933年にヒトラーが政権をとる以前に、21年にはベルリンに試験的な高速道路ともいえるアーブスができ、23年にはイタリアに高速道路ができ、29年にはデュッセルドルフからケルンの北のオブラーデン(Opladen)まで、32年にはケルンからボンまで、それぞれ30kmほどの高速道路ができてアウトバーンと名付けられていたのだから、ヒトラーはそれまでの計画を実施しただけ、といった具合です。あまりにも負の遺産が大きすぎるため、アウトバーン建設への関与さえ認めたくないのかもしれません。
ヒトラーは大衆車の開発も支援しました。1934年に大衆車の構想と設計案をヒトラーのところへ持ち込んだのは、またまた登場する天才的技術者、フェルディナンド・ポルシェです。車の名前はドイツ語で大衆車の意味のフォルクスワーゲン(Volkswagen)。ヒトラーはすぐに自動車メーカーに開発への協力を指示します。しかし、高級車を生産していた自動車メーカーは大衆車の構想に否定的で、ほとんど協力しませんでした。翌35年、ポルシェは有志たちと自分のガレージでプロトタイプの設計、製造を開始し、その年の内に高級車にもない数々の新技術を盛り込んだ最初の車をつくり上げます。その後、ポルシェはプロトタイプの改良をつづけますが、自動車メーカーは経営への政治介入を恐れて協力を拒みつづけます。業を煮やしたヒトラーはドイツ労働戦線の長官を責任者に任命し、38年にフォルクスワーゲン社を設立させました。同年、最初のモデルが公開されます。これを見たニューヨーク・タイムズの記者は、まるでかぶと虫、ビートル(Beetle)のようだと皮肉りました。
1945年にベルリンが陥落したとき、アウトバーンは2,100kmになっていました。これが連合軍最高司令官のアイゼンハワーを驚かせ、米国のインターステイト・ハイウェイの整備につながります。戦後のアウトバーンの建設は53年に始まり、現在では総延長が11,700kmとなっています。