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北浜出口と緒方洪庵

 

昭和37年(1962年)に設立された公団の本社は最初、西本願寺津村別院(北御堂)のすこし北にある瓦町ビルにありました。緒方洪庵の最初の適塾もそのビルの西側のあたりで開かれたそうです。そしてどちらも開設から7年後に移転しました。公団は南へ向かって本町へ、適塾は北へ向かって北浜へ。

 

文化7年(1810年)、備中足守(岡山県)に生れた緒方洪庵は16才のときに父の転勤について大阪に来ると、17才で大阪蘭学の祖といわれる中天游(なか てんゆう)の門下生となります。江戸や長崎でも学んだあと、天保9年(1838年)に瓦町で医業を開業し、同時に適塾を開きました。評判を聞いて全国から集まった入門者で塾が手狭となり、弘化2年(1845年)には北浜へ移ります。「姓名録」によると636名が入門し、大村益次郎、大鳥圭介、橋本左内、福沢諭吉など、幕末から明治にかけて活躍した多くの人材を輩出しました。温厚で思いやりのある洪庵は塾生に慕われたようです。福沢諭吉は、腸チフスに罹ったときの洪庵の手厚い看病を終生忘れませんでした。諭吉は洪庵夫人の八重についても「私がおっかさんのようにしている大恩人である」と繰り返していました。

 

適塾は奇跡的に戦災を逃れ、昭和39年(1964年)には国の重要文化財に指定されました。塾生が起居した大部屋はかなり広々としていましたが、1人が1畳に机と寝具を置いていたというのですからぎゅうぎゅう詰めです。建物の横の小さな公園に洪庵の像が立っていました。八重の像は西宮名塩の生家跡にあって、「蘭学の泉 ここに湧きい出ず」と書かれています。

 

洪庵は幕府の奥医師に召され、文久2年(1862年)に江戸へたちますが、翌年には54才で亡くなりました。南森町出口の東にある龍海寺に洪庵と八重のお墓が並んでいます。洪庵の願いどおり恩師、中天游夫妻のお墓と一 緒です。

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