愛しのハイウェイ
阪神高速
堂島入口とお初
梅田橋の南詰にある天満屋を抜け出したお初は徳兵衛と手を取り合いながら曽根崎川の北の堤を東へ急ぎます。書き置きを見た追っ手が迫るかもしれない。四ツ橋筋の桜橋あたりからは村を避けて北上し、ヒルトンホテルと駅前第一ビルの間あたりを再び東へ向かって曽根崎の森へ。赤穂浪士の討ち入りがあった翌年、元禄16年(1703年)4月7日に起きた堂島新地の遊女、お初と醤油屋の手代、徳兵衛の心中事件です。
近松門左衛門はこれをすぐに人形浄瑠璃に仕立て上げ、ちょうど1ヵ月後の5月7日には道頓堀の竹本座で初公演します。これが空前の大ヒット。
儒学者、荻生徂徠(おぎゅうそらい)も絶賛した名文です。
あれ数ふれば暁の 七つの時が六つ鳴りて
残る一つが今生の 鐘の響きの聞き納め
このとき聞こえた鐘は高麗橋入口の東にある釣鐘町の釣鐘屋敷跡に残されています。
梅田の橋を鵲(かささぎ)の 橋と契りていつまでも
我とそなたは婦夫(めおと)星
かならず添うと縋(すが)り寄り
「鵲の橋」は七夕の夜に牽牛と織女を逢わせるために鵲が翼を広げて渡すという橋です。残念ながら梅田橋の跡地には碑がありません。
この時代、人形浄瑠璃で人気のある作品はすぐに歌舞伎でも上演されました。しかし曽根崎心中を皮切りに心中ものブームが起こり、心中が続発したために、幕府は享保8年(1723年)に心中ものの上演を禁止してしまいました。曽根崎心中が再び上演されたのは初演からちょうど2世紀半あと、昭和28年(1953年)のことです。お初を演じたのは二代目中村扇雀。観客はお初が天満屋を抜け出すシーンで「早く、早く」と叫ぶほどの熱狂ぶり。凄まじい扇雀ブームが起きたそうです。扇雀さんは三代目鴈治郎となり、四代目坂田藤十郎を襲名しました。奥さんは元国土交通大臣、元参議院議長の扇千景さん。