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森之宮出入口と細川ガラシャ
森之宮出入口の南には細川屋敷の越中井が残されています。関ヶ原の戦いの直前、ガラシャを人質にしようと石田三成の兵が細川屋敷に押し寄せると、ガラシャは家老に自分を切らせ、屋敷に火を放たせました。辞世の句です。
ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の
花も花なれ 人も人なれ
永禄6年(1563年)に明智光秀の三女として生まれた玉は、15才のときに織田信長のすすめで細川幽斎(藤孝)の嫡男である忠興に嫁ぎました。たぐいまれな容姿が評判の花嫁に洛中は大騒ぎとなり、嫁入りの行列が通る沿道には人が満ちあふれたといいます。
嫁いで4年後に父の光秀が信長を本能寺で討ち、自らも滅びます。忠興は逆臣の娘となった玉を丹後の味土野(京丹後市弥生町)に幽閉しました。2年の後、秀吉は玉を呼び戻すことを許し、大阪城の玉造口にあった細川家の大阪屋敷に住むことを命じます。
忠興は、美しい玉が他の男の目に触れることを嫌い、外出すること禁じていました。カトリックの教えに心をひかれていた玉は、忠興が九州へ出陣しているあいだに密かに教会へ行きます。修道士は「これほど明晰な日本の女性と話したことはなかった」と述べています。秀吉が宣教師追放令を出すと玉は急いで洗礼を受けます。洗礼名はラテン語で神の恵みを意味するガラシャとしました。
三成が家康に従って会津へ向かっている大名たちの内室を人質にしようとしたとき、黒田長政や加藤清正の妻たちはいち早く屋敷から脱出しました。ガラシャは忠興の「屋敷から一歩たりとも出てはならぬ」という言いつけを守って死を選びます。
忠興は、玉のために百人一首を手作りしたり、色や模様を考えて布を染めさせ、寸法を指定して縫わせた衣装を玉に着せたりしました。玉の喜ぶ顔が見たくて、キリシタン大名である高山右近の説教を伝えつづけたりもしています。忠興の嫉妬心が強すぎたのは、玉への想いが深かすぎたからでしょうか。越中井の南にある聖マリア大聖堂にはガラシャと高山右近の像が立っています。